昭和戦争末期、米原駅の列車を空襲から守るために造られ、終戦後はごみ捨て場にされていた「列車壕
地元住民らが2年前に清掃するなどして整備し、市に2月、指定の可能性を打診した。文化庁記念物課によると、戦争遺跡の壕の多くは戦闘機を隠す「掩体
列車壕はJR米原駅の北東約2キロの「岩脇山」(127メートル)に、全長約130メートルの貫通したものと、山の両側から掘り進められ、途中で 未貫通となった2本の横穴(幅2~4メートル、高さ1・5~5メートル)が南北に平行に開いている。壕内側の岩肌の様子などから、ツルハシやスコップの 他、火薬などが使用されたとみられる。
壕の建設に関する記録は一切残っていないが、県内の考古学者でつくる「滋賀戦 争遺跡研究会」の中井均・県立大准教授(日本考古学)らによると、米原駅は戦時中、東海道線や北陸線を通じて兵士や弾薬を運ぶ拠点だったという。県内でも 空襲が始まった1945年頃に、空襲から運搬手段として重要な列車を守るために着工したが、完成せずに終戦を迎えたとみられる。
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